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宗和太郎前学長ブログ2017

いいこと始めよう

 調身・調息・調心

 姿勢を正し、呼吸を深くすれば、心が落ち着き集中力も増します。ヨガ、座禅、瞑想で強調されることです。

 調身 腰を立て、背骨をまっすぐ伸ばしましょう。肩の力を抜き、天から一本の線で釣り上げられている感じに腰を立て、背骨をまっすぐ伸ばします。

 調息 丹田(臍下7〜8センチ)に手をあててみてください。そこに意識を集中します。3秒吸って(お腹を膨らまし)、2秒溜めて、15秒かけて吐きます(お腹を凹ませます)。長く吐き出すことがポイントです。そのことで深く吸い込むことができ、体の隅々まで酸素を行き渡らせることができるのです。このことで、心が落ち着き、集中力がついてきます。疲れて集中力が途切れてしまったなという時にやってみてください。不思議にやる気が出てきます。それが調心です。何か誘惑や衝動に負けそうになった時も、乗り越える力が湧くそうです。

 

 もう一人の自分、「2」を手なずける

 「もう一人の自分」は私の中にもいるし、あなたの中にもいます。誰の中にもいますが、用心しないと知らない間に乗っ取られます。今みなさんに話している私を「宗和太郎1」とすれば、今は見えないけど「宗和太郎2」がいるのです。みなさんは自分の中の「2」に気づいていますか?

 例えば2は、今日しなければいけないことに気づいた時に「今日しなくても、明日やればいい。」と囁きます。そう言われると、明日でもいいかと先延ばししてしまうのです。先延ばしして失敗したことをいっぱい経験しているのに、学んでいないのです。みなさんはそんな場面が思い浮かびますか?

 例えば、明日の授業、授業外学習の宿題がありました。調べなければなりません。そんな時「2」はこう囁きます。「面倒くさいから、誰かに見せてもらおう。」そう〇〇さんだったら、真面目だし「写させて」って言えば、嫌とは言わないはず。

 でも写したのでは、自分の勉強にはならないよね。「2」は言います。「悪いことだけど、みんなやってるし。見つからなければ、大丈夫。」

 こうした人に、社会で責任ある仕事を任せることはできません。命を預かる職場では、重大な事故につながりそうです。私が責任者だったら、こういう人には即刻やめてもらいます。ちゃんとしてください。

 「2」は言います「どうせ私には無理。」いつからそんな口癖がついたのでしょう。前のブログで書きましたが、人生で放り投げたことは、後の人生で拾わなければなりません。社会で働いていくとき、「自分には無理」と言って投げるわがままは通りません。結局やらなければならないことは、できるようにならないと、社会で仕事はできません。

 ビルサービスさんが校舎を掃除して、床をワックスで磨いてピカピカにして皆さんを迎えてくれています。最初に汚すのは誰でしょう。廊下の靴のこすった痕、机の上の消しかす、「2」は言うのです。「私がしなくても、誰かがするでしょ。」

 みんなが自己本位で周りのことには無関心になれば、私達の学校、私たちの町は荒んで行きます。そうなったとき、「2」は「私のせいじゃないでしょ」と言うでしょうが、私のせいなのです。

 通学の電車で、友達が大声で喋っています。周りの人は迷惑そうです。自己本位です。誰か注意しなくていいのでしょうか。「2」は言います「私がしなくても、誰かがするでしょ。」

 私の中にも宗和太郎2がいます。いつも戦っています。正直、負けることも少なくありません。美味しいケーキや美味しいワインには負けます。皆さんの中にはどんな2がいますか。2は誘惑します。それを思い浮かべて「もう一人の自分」との戦い方を考えてください。戦っていくうちに勝ち方も身についてきます。それが「自分を育てる力」になります。

 

自分を育てる力

 やめる力=やめなきゃいけないこと、やめたいことを書き出してください。例えばスマホ依存、タバコ、夜更かし。

 やる力=始めたいこと、続けたいことです。やればできそうな、頑張りたいことを書き出してください。例えば読書、家事の手伝い、ありがとう、どうぞの言葉、ノートを見返し、授業外学習に取り組むことも大切です。

 目指す力=目標を持ちましょう、そしてそれを達成することで「やればできる」の自信を身につけるのです。ささやかな目標でいいのです。勝ち癖が大切です。「週に1回は質問する」「読書月1冊」など。

 

今日の延長上に明日はやってくる

 明日は今日の延長です。未来も今日の延長上にあります。突然、明るい未来は降ってきません。明日伸ばしにすれば、きっと明日もしない明日が生まれます。今日することが、明日に続きます。そうした1日1日が一生になります。一日一生です。

 

目指してほしいこと

 建学の精神は「礼節・勤労」です。礼節は人に配慮ができること。そこでは人の視点、立場に立って考える想像力が必要です。もしかしたら、自分が誰かに迷惑をかけているかもしれない、不快な思いをさせているかもしれないという気遣いをしてください。

 「静粛の気遣い」をしましょう。人の中にいるときは静かにする。声や音を立てれば、無闇に動けば、人の迷惑になる。だから静粛にするのです。「音」や「声」だけに止まりません。場が清らかであること、環境を汚さない精神です。ですから「立ち去るときは来た時よりも美しく」につながるのです。

 勤労は努力を惜しまず働くこと、学ぶことですが、その向かうところ目標を考えれば、世に貢献すること、人に貢献することです。私たち人間は、人に役立てたとき、自分がいた甲斐、つまり喜びを感じるものです。この喜びを知り、この喜びに目覚め、自己中心的な、ワガママな利益ではなく社会で働く喜びを追求する人物になって欲しいのです。自己中でなく、利他(他人を利する)精神を身につけましょう。教室で自分の考えを発表し、みんなが考える材料を提供するのは、授業への貢献であり、みんなへの貢献です。その考えがたとえみんなから支持されなくても、みんなが考える材料を与えた。考える視野を広げたのは間違いありません。

 また人に貢献する喜びとしては、教室の学ぶ環境が乱れていたら、明窓浄几、さりげなく整える、脱いだ靴が乱れていたらさりげなく整える、なども陰ながら皆んなに貢献することではないでしょうか。

そして最後に⑶やればできる自信をたくさん身につけてください。

自信は次の挑戦につながります。挑戦は自分を一歩成長させることにつながります。挑戦の結果がたとえ失敗であっても、失敗から学ぶことで自分は成長できるのです。失敗こそ成鳥の糧です。

 前期できなかったことが、後期色々たくさんできるようになるといいですね。実りの秋が皆さんに訪れることを期待しています。自分を成長させるために、いいこと始めようじゃありませんか。

 

(2017/10/14記)宗和太郎

建学の精神を受け継ぐ

建学の精神

 私たち一人一人に誕生日があるように、本学にも誕生日があります。それが今日10月12日です。78年前、図書館前に銅像で立つ大坪資秀先生が本学園を創立されました。学校が誕生するとき、そこには創立者の願いが込められています。それが建学の精神です。礼節・勤労という建学の精神は、爾来78年にわたってバトンが受け継がれ、今日に至ります。

 私がこの学園に勤めたのは20代の終わりでした。その頃の私は建学の精神が礼節・勤労だと聞いても、そんなものかと特別の感想は持ちませんでした。しかしその後長い年月をこの「礼節・勤労」とともに歩んで来て、よくぞ、「礼節・勤労」を本学は建学の精神に戴くことができた、ありがたい、と誇りに思うようになりました。なぜ、そう思うようになったのかをお話しします。

精神を生かす

 建学の精神は額に納まっています。しかし、額に納まっているだけでは生きていません。額から取り出して、どんな味わいがあるか、それぞれが解釈することで、建学の精神は生きてくるように私は思います。建学の精神のバトンを受け取るということは、ただ形だけ携えるということではなくて、その意味、その良さを時代に、社会に生かして解釈していくことが大切だろうと思います。是非、学生の皆さんも礼節は今も大切だろうか、勤労は古くさくないだろうか、議論してください。そのようにして揺さぶられ、批判的に検討されて生き残る精神こそ、建学の精神の生きる姿だろうと思います。

自分と同じく他人を大切にする(礼節)

 なぜ礼節が大切なのでしょうか。礼儀作法に則り行動すること、節度を保つことです。なぜ大切かは、それがなくなったらどうなるかを想像してみると、分かりやすくなります。例えばコンビニに行って店員さんから、先輩のような態度でいきなり「これとあれは買えよ」と命令されたらどうでしょう?あるいは昔からの友達のようにため口で「これしてよ」と頼まれたらどんな気持ちがするでしょう。そんな店とは、そんな人とは関わりたくありませんよね。他人を大切にする配慮と行動が、社会では必要です。社会人には礼儀と節度(すなわち度を超さないこと、控えめであること)が求められるのです。なぜなら、誰でも自分が大切にされたいと思っているし、大切にされないところには行きたくないと思うからです。礼節がなければ社会は成り立ちません。

自他共に良しの精神

 しかし他人を大切にするとともに大切なことは、自分を大切にすることです。自分だけが我慢すればいいと、いつもへりくだっていると、自分を犠牲にした  分を取り戻したいという気持ちがいつか出てきます。誰にもプライドがありますから、痛めつけられてばかりでは我慢ができなくなるのです。それが、相手へキレることになったり、隠れて意地悪することになったり、全然関係ない人へのいじめや憂さ晴らしになったりするのです。結局人を大切にはできなくなります。自分を好きになって、自分を大切にしましょう。自分を大切にしている人が、人も大切にできます。ですから、「自他共に良し」を目指す人間尊重の精神に立ち、人からの不公平な嫌がらせを我慢したり、見逃してはいけません。自分に配慮し、人に配慮する、人間尊重の精神、これが私たちの礼節です。大切な考え方だと思いませんか。

世のため、人のため働く、学ぶ(勤労)

 勤労について考えてみましょう。一生懸命働くのは何のためでしょう?生活のため、お金を稼ぐため、それもあるでしょう。しかし生活のため、お金のためだけに働いている人は、それで十分な満足は得られないでしょう。なぜなら、生活やお金を超える、大きな目的と仕事がつながっていないからです。大きな目的とは、使命感です。何かのために働くという、「より大きな目的」です。それがなければ、仕事の効率を上げたいと思わないでしょうし、自分を成長させたいとも思わないでしょう。時間だけ働いて、お金をもらえば満足です。働く「より大きな目的」とは何か。それは、世のため、人のため働くということです。自己満足でなく、より多くの人の満足のために働くことです。それが人生の生きがいになります。

「ありがとう」「どうぞ」

 周りを見渡してください。この世界は、人々の勤労で成り立っています。私たちが着るもの、手にする物、食べる物、この社会、読む本、聞く音楽、見る映画、私たちの生活を成り立たせている物、すべてが他人の勤労のお陰です。そう考えるこの私たち自身でさえ、多くの人の間接、直接の影響で成り立っています。人々、社会のお陰で今の私たちがあります。

 働くとは、この世を支えていくこと、そのお陰で私たちは生活の糧が得られるのです。私たちの収入は私たちの社会への貢献に対する、社会からのお礼、「ありがとう」なのです。自分が何をすれば、人に貢献できるのか、世のためになるのか、模索してください。あなたの周りに、自分が貢献できることがあるはずです。大きな貢献でなくても、例えば、周りの人に「ありがとう」を言うとか、「どうぞ」と言うのも貢献です。あなたの言葉に救われる人はいるはずです。レジのアルバイトをして、お客さんから「ありがとう」と言われてうれしかったから、自分も「ありがとう」を言うようになったと話した学生がいました。

 さらに自分を成長させて、より多くの人に貢献できるように、あるいはより深く人に貢献できるようになってください。そのためには勉強とつらいことや挫折を乗り越えていく経験が必要です。様々なことにチャレンジできるように、自分の中に小さな自信を育てていくことを忘れないでください。

蟻の眼と鳥の眼で見る

 人に貢献するときに、忘れないでほしいのが、「蟻の目で見ることと鳥の目で見ること」です。蟻のように地を這いながらきめ細やかに、人の気持ちに繊細な感受性を持つこと。そして敏感に配慮できることは大切です。

 しかしいつも相手の目を窺って、気に入られよう、嫌われないようにしようとしていたのでは、本当の人への貢献はできません。もう一方で突き放した物の見方、鳥のように高い空から見て、相手がどうなることがその人の幸せかを見る目が大事です。

 例えば幼稚園に実習に行くと、園児達は優しい実習生のお姉さんが大好きです。何でも言うことを聞いてくれるからです。昨日まで先生に言われて自分で止めていた上着のボタンを、子供達が「先生ボタン止めて」と実習生に寄ってきます。ボタンを止めてほしい園児の気持ちはよく分かります。それは蟻の目で見えることです。しかし鳥の目で見ると、園児が自分でボタンが止められるようになることこそが大切であり、幸せであり、自分への自信につながることが見えてきます。目の前のことだけに目を奪われず、遠い将来への道筋がしっかり見えるようにならなければ、人への本当の貢献はできません。

本当の貢献

 ドメスティック・ヴァイオレンス(DV)に捕まる人がいます。なぜ暴力を振るう人と付き合うのでしょうか。暴力を振るう人は相手を「自分の物」のように支配したいと思っています。持ち物を調べ、メールをチェックし、自分に忠誠を誓わせます。言うことを聞かないときは暴力で言うことを聞かせようとするのです。別れようとすると、泣きながら謝るのです。「お前がいなければ生きていけない」と哀願します。その言葉を聞くと、この人には私が必要だと思い別れられないのです。

 自分に自信が持てない人、自己肯定感が低い人は、誰かに必要とされているということに自分の居場所を見つけてしまいます。たとえその相手と別れても、また同じような人と付き合ってしまうと言われています。誰かの役に立っていたとしても、それで本当に自分も相手も幸せになれる道なのかを、鳥の目になって、つまり高いところから俯瞰して見る必要があります。

 礼節・勤労という建学の精神は、社会人としての基本ですが、奥が深いのです。人間としてのあり方、生き方についていろいろ考えさせてくれる有り難い建学の精神だと思うのです。

校歌

 校歌に目を向けましょう。

「集ひきてけふこそ学べ 若きわれらの夢ははるけし」

世のため、人のために貢献できるよう私たちは集うた。私たちのまなざしは遙か向こうを見つめつつ、今日も学ぶ。

「人らしき人にあるべく 若きわれらの道はけはしき」

自他ともに向上を求め、失敗や挫折を乗り越え私たちは人間修行に励む。

「よき友に会ひて語らん 若きわれらの花は友垣」

ともに学ぶ、我ら学友、巡り会えたことに感謝し、互いを甘やかすことなく、切磋琢磨し未来を築いていこうではないか。

 

 この忍ヶ丘での日々が、皆さんにとって、かけがえのない人生の一頁になることを願っています。

(2017/10/13記)宗和太郎

放り投げたものは、拾わなければならない ~人生はビスケット缶~

 毎日暑い日が続きます。私なんかは一日が終わるとぐったりしています。

 疲れているとき、油断していると取り込まれるのが「だるい」「面倒」という気持ちです。この気持ちに取り込まれると、何もする気がなくなり、一日を無駄に過ごす事になりかねません。

 

あの時、しておけばよかった

 そこで、「だるい」「面倒」の気持ちに負けてしまい、「あの時、しておけばよかった」と後悔している事を思い起こしてみましょう。

 私は小学校の時、親にせがんでグローブを買ってもらいました。そして近所の子どもたちとキャッチボールをするようになりました。みんな上手で、自分だけが転がるボールの追いかけっこに終始しなければなりませんでした。自分に嫌気がさし、面倒になり、誘われても断るようになりました。当時子どもたちの遊びの中心は野球でしたから、遊びの群れから遠ざかり、やがて球技全般が嫌いになったことを覚えています。

 中学校に入って剣道部に入りました。暑い日も寒い日も毎日練習したのですが、2年になるとき転校し、転校した先に剣道部はなく、また新たな運動部への参加するのは面倒に思い、運動部への参加は終わってしまいました。それ以来、体を動かす事が面倒になり、運動オンチになり、どんどん太っていきました。

 高校に入ってからは勉強自体が面倒くさくなっていきました。授業中も先生の話しを聞かなくなりました。覚えることが一杯あった日本史や世界史の知識が全くなく、色々な本を読んでも、歴史が分からず、本を読まないようになっていきました。

 

 今思えば、高校卒業までにやり残したことは、それで済む訳でなく、その後の人生で長い期間かけながら、取り戻していく事になりました。放り投げても、結局は拾わなければならないのです。みなさんは、「あの時、しておけばよかったこと」何が頭に浮かびますか。

 

あの時、しておいて良かった

 「あの時、しておいて良かった」こともあるはずです。面倒だったけど、頑張った。そのおかげで今助かっているということです。すぐには気づきにくいかもしれませんが、今できることは、どこかで自分が頑張ったお陰なのです。

 私は大学に入って、語学をコツコツ勉強するのが面倒で1年の時は英語もドイツ語も単位を落としてしまいました。2年になって再履修をすることになりました。その時、逃げても逃げられないと諦めて、コツコツ勉強するようにしました。勉強すれば、勉強に応じて語学は上達していきます。やりがいを感じました。ドイツ語もフランス語も勉強し、少しは話せるようになり、その後1人で海外旅行した時に、現地の人と現地の言葉で交流できる充実感を体験できました。

 30歳の時、結婚して子どもが生まれたのを機に、高校時代から吸っていたタバコを止めました。喫煙習慣は薬物依存、ニコチン中毒ですから、止めるのは大変です。それを止めることができたのは「やればできる」自信になりました。おかげで今の健康やお金の節約になったのは間違いないでしょう。

 40歳の時、それまでの読書は仕事に必要なところだけのつまみ食いがほとんどでした。意を決して、夏休みに本1冊を初めから最後まで読んで見ようと決めました。ジョギングやマラソンのように、毎日読み続ける事に挑戦しました。そうして1冊読み終えた時の征服感・達成感は、今まで味わったことのない体験でした。次への挑戦意欲もわき、本を読む事への面倒・苦手意識はなくなりました。そして片道10キロの自転車通勤や文章作成、イタリア語に挑戦していきました。おかげでじっくり考える習慣が身につき、運動も好きになっていきました。

 50歳の時、ダイエットに挑戦しました。95キロくらいあり、健康診断では毎年「20キロの減量が必要」と書かれていましたが、出来るわけがないと思い続けていました。

 しかし、その時は目標を変えたのです。夏休みにマイナス3キロを目標にしたのです。マイナス3キロなら、頑張ればできそうに思えたのです。そして、やればできたのです。さらに8月に続いて9月10月11月毎月3キロ痩せていきました。結局半年で20キロの減量を実現できたのです。大切なのは、やってみたい、やればできそうで、続けられる目標を立てることでした。

 

これからできるようになりたい

 みなさんも「これからできるようになりたい」ことをどうぞ欲張って考えてください。そしてそこから「やればできそうな、続けられる、最初の目標」を考えるのです。大切なのはやればできるレベル、続けられる頻度と期間です。そして達成結果を見て、次の目標へ繋げていくことです。

 

やればできそうな続けられる最初の目標

 例えば読書なら、新聞のコラムから始めるのが手頃かもしれません。新聞を取っていないなら、読売新聞のコラム「編集手帳」が中公新書で1冊になっていますから、それを読むことをお勧めします。書いているのは、竹内政明という当代きっての名文家です。たった500字余りのコラムで人を瞬時に涙させます。こういう文章は書き写して勉強するのがいいのかもしれません。

 

 みなさんはいずれ社会に羽ばたき、人の役に立つことを仕事としていきます。人の役に立てることは生きがいになります。そのために自分がしなければいけないこと、できなければいけないことをしっかり視野に入れてください。

 「自分にいいこと」始めましょう。「他人に役立つこと」始めましょう。

 

「人生はビスケット缶」(上阪徹『成功者3000人の言葉』飛鳥新車)

 「人生はビスケット缶」という話があります。ビスケット缶には、甘いクリームが付いたビスケットやジャムが付いたビスケットの他に、味のしないビスケットや、固くて苦いビスケットも入っています。このビスケットが人生だそうです。神様はすべて人に同じビスケット缶を与えているそうです。甘いのから食べてもいいし。美味しくないのから食べてもいい。全部食べ終えたときに人生が終わります。

 みなさんは甘いのから食べますか?若い内に甘いビスケットを食べてしまうと、年とってから美味しくない、固くて苦いビスケットばかりが残ることになります。

固くて苦いビスケットも、良く噛んで食べると美味しく感じるそうです。

 

始めよう

 面倒と思って、避けている挑戦。この夏、自分の壁を破る挑戦始めて見ませんか?

 「やればできる」の自信をつけてほしいと願っています。

 

(2017/07/26記)宗和太郎

自分が幸せでない人は他人を幸せにできない

 人間には、人の役に立ちたいという美しい心があると同時に、「ひとの不幸は蜜の味」と思う悪魔の心がある。悪魔の正体は、ねたみ、そねみである。自分が満たされていないと、人の幸せが羨ましく嫉妬心が芽生える。

 新館完成記念式の講演に、キグルミビズの加納ひろみさんにお越しいただいた。女性ばかり30人の会社で宮崎から世界に着ぐるみを発信していらっしゃる。講演の中で加納さんが披露されたモットーに「自分が幸せでない人は他人を幸せにできない」というのがある。加納さんがアップルなどでの勤務を経て辿り着いた信念だ。

 日本の青少年は、韓国、中国、アメリカの青少年に較べて、自己肯定感が低いという調査結果がある。外国の子どもたちが教室で自信たっぷりに手を挙げ発言する様子を見ると、日本の教室の静けさは、子どもたちの自信のなさを表しているかもしれない。もっと自信を持って良いのに、マイナス思考が板に付いているのではないか。

 自分の良い所を再発見しよう。良い所は、結果が出せているかどうかではない。その気があるか。プロセスを歩んでいるかでもある。頑張ろうとする芽をプラスに捉え、自信に育てほしい。

 自分に自信をもって、他人を幸せにしたい。

(2017/05/12記)宗和太郎

やめられない、とまらない

 人間は理性の動物だと言われるが、後悔は先に立たない。「ついやってしまった!」は枚挙にいとまがない。ネット、スマホのゲーム、衝動買い、食べ過ぎ・飲み過ぎ、売り言葉に買い言葉、あるいは「嫌です」の一言が言えない。「やめられない、とまらない」はお菓子のコマーシャルだった。人間は理性の前に、感情の動物であり、習慣の動物なのである。

 自律するというのは、感情そして習慣に流れる行動に思考判断によるストップを入れることである。「懲りない」「学習しない」のは、思考判断に基づく自分のコントロールが訓練されていないということがある。

 自分をコントロールすることができるようになるのが、大人になることである。大人になってもなかなか我が身はついて行かない。カントは、いつまでも大人になれないのは、思考判断スイッチを入れない怠け癖と臆病のせいであると言った。

 怠け癖、臆病さには自信があるが、自律の自信はない。できなかった失敗は山ほど浮かぶのに、「やればできる」の自信が身についていない。失敗は十分だ。やってみたい、やればできそうな難しさに挑戦して、自分に自信をつけさせていくのだ。例えば、いきなり禁煙でなく1週間の喫煙本数を減らす。スマホを見る時間帯を限定する。衝動買いにストップを欠けた回数を増やす、腹八分目の日を作る。「ごめんなさい」「ありがとう」を1週間で言えた回数を増やす。そうして自分をコントロールする自信を育てていく。そして1週間に1回でも自分を振り返る時間を作り、思考判断スイッチを入れて、反省・改善事項を見つけていくのである。反省改善を活かすことができるようになれば、自律度は高まっていく。

 本学の建学の精神「礼節・勤労」は人間として大切なことを教えてくれている。

 礼節は、人間尊重の精神にたち、自他の立場を考え、自分を律することである。勤労は努力して自己を高め、社会に貢献することである。怠け癖と臆病を克服したい。

(2017/04/02記)宗和太郎

笑顔の交流がある暮らし

 本学に勤めて33年になる。名古屋で生まれ、学生時代を東京で10年過ごし、縁もゆかりもない宮崎に就職した。最初の頃は職場以外に知り合いのない生活で、故郷を恋しく感じたこともあったが、今は宮崎の暮らしに満足している。日本のひなた、気候も穏やかで暖かい。人々ものんびりして過ごしやすい。物価も安く、おいしい野菜、お肉、魚がある。何よりきれいな空気、豊かな自然がある。欲しいものがなければ、ネットで取り寄せられる時代だ。この有り難い宮崎を盛り立てていきたいと思う。

 時代は少子高齢化、人口減少で町や村がすたれていく危機にある。大都市に人口が集中し、地方は若者が減少し、子どもの減少にも拍車がかかる。地方創生が言われる所以である。若者の流出ポイントは進学、就職にある。宮崎県内の4大進学者の3/4が県外に出る。短大進学者の1/2が県外に出る。県外に出なければ学べないこともあるだろう。しかし県外に出た若者のどれだけが戻ってくれるのか。県外に進学すれば、学費以外にかなりの生活費を負担しなければならない。そのうえ戻ってくれないのであれば、かなりの損失なのではないか。

 親は家計をやりくりして子どもの教育費を捻出し、子どもに幸多かれと祈る。しかし子どもの幸せとは何なのか。宮崎には就職先が無いと言われる。都会の方が給料が高いと言われる。本当にそうか。

 本学の就職指導課には求人票が溢れている。保育士の求人倍率は3倍で、県内の保育園からは学生が求人に応募しないことへの苦情がひっきりなしだ。学生が応募しないのではない。求人に対して学生の絶対数が少ないのである。県外に流出している訳でも、他職種へ就職している訳でも無い。

 保育士不足で、悪いと言われた待遇面の改善も進む。そして国の後押しもあり、県は保育士就学資金貸付事業に乗り出した。採用枠があるが、県内に就職予定であれは2年間で160万円が借りられ、5年間保育士として就職すれば返還免除になる。

 現代ビジネス科では一般企業等への就職を目指す。宮崎の初任給は16万円、東京では18万円、確かに大都会の方が給料は良い。しかし、収入から住居費など生活費を差し引いた残りはどちらが多いか。県の資料では、宮崎の物価の安さは全国第1位だそうである。宮崎銀行の資料では、マイホームを建てるのに宮崎では1800万円かかるが、東京では5300万円となる。マンション購入も同程度である。

 しかし人としての幸せは、所有物や財産の多寡ではない。人から愛され、人から褒められ、人の役に立ち、人から必要とされることにあると思う。

 都会では匿名の多くの人の中で暮らす。地方では顔の見える関係で暮らすことが可能だ。自分への眼差しから自分の仕事への責任を感じ、また相手の反応から貢献の喜びも感じる。何より笑顔の交流がある。顔の見える関係の延長上に我が町、私たちの暮らしがある。

 都会には、田舎にない刺激がある。様々な刺激に囲まれて暮らすことへの憧れも分かる。しかし、地元で暮らすことの豊かさにも気付かせたい。

(2017/02/02記)宗和太郎

静粛の気遣い

 新年明けましておめでとうございます。

 新館とその付帯工事、本館の耐震工事、様々な工事と引っ越しに明け暮れた平成28年を後にし、いよいよ短大は新館新時代に突入します。環境は整いました。次は中身です。次の50年必要とされる短大を目指し、イノベーションに取り組みます。

 2年生の多くが成人式を迎えました。はなむけに成人の意味を考えてみたいと思います。大人の庇護の元にあった子ども時代を巣立ち、独り立ちする時期を迎えました。自分で自分をしっかりコントロールして、社会の一員になっていくことが求められます。

 社会の一員になるということは、メンバーとしての責任を自覚して行動していくことです。社会は各メンバーの働き「勤労」により支えられています。私たちはそれを享受することで暮らしも成り立てば、また様々な楽しみや苦しみも支えられます。成人したからには、メンバーとして社会への積極的な貢献が求められます。そしてその貢献こそ、私たちの生きがいにつながるものです。何をして貢献するかは人によって様々ですが、大切なのは貢献を志向する考え方を持つことです。

 子ども時代は基本的に自己満足的であり、他人の満足を考えません。発達に従って、自分の満足だけでなく、愛着を持つ人の満足や仲間の満足、集団や社会の満足が考えられるようになっていきます。自分の利益だけでなく、人の立場や気持ちなどを考えながら、自分の行動をコントロールできるようになっていくのです。これが大人になるということです。

 自分が「あること」をしたら、人はどのような影響を受けるか、「あること」をしなかったら、人はどのような影響を受けるのか。これらは直覚的には分かりません。考えてみないと分からないのです。人の立場、気持ちを考えてみることが「気遣い」「気配り」です。「気遣い」「気配り」できる人が大人なのです。

 楽しいときは、つい回りのことに気が回らず大声で笑ったりします。悲しいときは人目も構わず泣き出したりします。それはそれで自然のことですが、周りが目に入っていないという意味では、コントロールされていない大人らしくない行動とも言えます。

 授業中に私語をすれば、その間の話しを自分も相手も聞き漏らし、周りにいた人も聞き取れず、集中が途切れて教室から学ぶ雰囲気が崩れてしまうかもしれません。それでは何の為に教室に来たのか、分からなくなりますね。

 一方で、授業中の居眠りや遅刻、欠席は、誰にも迷惑をかけていないという人がいます。ほんとうにそうでしょうか。知識や判断力に欠けたあなたと、これからつきあうことになるのは誰でしょう。その人はあなたに命を預けているかもしれません。また、あなたが勉強するために、お金を工面している人はいないのでしょうか。いずれも少し考えれば気づくことができます。社会的影響を考えて行動する習慣をつけることで、社会的責任を持てる人格になっていきます。

 「静粛の気遣い」という言葉があります。大勢が集まる中で、静粛にする気遣いです。静粛は、そこに集う人々の心が1つにならなければ実現できません。無音の結晶に心を澄ましたいものです。

(2017/01/10記)宗和太郎

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