発行物・報道資料
宗和太郎前学長ブログ2019
棚ぼた願う人生より、人に役立てる人生を願う
マイナスばかり見える自分
皆さん、自分を見て短所と長所どっちが多いですか?
こう聞くと大抵の人が短所の方が多いと答えます。本当は短所と同じ数だけ長所もあるのです。短所も長所も人の特性についての見方です。特性は1つなのですが、それをプラスの面から見ると長所が見えるし、マイナスの面から見ると短所が見えるということなのです。見方ですから同じ数というのも変ですが、見えるはずなのに見えていないというのは、見方がマイナス側に偏っているということでしょう。
虐待は罪
長所・短所それぞれあるのに、自分を「短所ばかりの人間」呼ばわりするのは、自分に対する精神的虐待です。良いところを見て上げましょう。厳しい冷たい眼は人を萎縮させます。優しい温かい眼は人を育てます。これは自分に対しても、他人に対しても同じです。自分を大切にできる人が、人を大切にできます。
人生はあなたが貢献するのを待っている
自分はこれといった才能や器量に恵まれていない。積極的に社会に出て行く自信もなく、自分の人生にどんな意味があるだろうと悲観している人もいます。
人生の意味は棚ぼた式に降ってくるものでありません。『夜と霧』を書いたフランクルはあなたがどんな人生にしたいか、人生から問いかけられているのだと説きます。
あなたを必要としている人がこの世の中にはいます。あなたが来てくれるのを待っている人がいます。誰でしょう?あなたはそこで何ができるでしょう?そこにあなたの人生の意味が生まれます。生きがいが生まれます。
誇りの持てる人生を
自分の都合や利益ばかり考えている人は、人のために役立つという私達人間の使命を考えなくなります。命を閉じるとき自分に満足できるでしょうか。
自分の都合や利益の誘惑に打ち克ち、在るべき姿に努力を重ねることが、人生を気高く誇りあるものにします。苦労の中でも自分を見失わない誇りになります。それが人間の魂を育てることです。
(2019/11/15記)宗和太郎
劣等感サバイバル戦略 ~見栄張りに終わらない進歩を~
退職後の晴耕雨読
65歳、同級生は定年退職する年齢である。退職後の理想に「晴耕雨読」が語られる。これまで十分勤しめなかった自然や書物と対話したいということだろう。
人間の性で、何かに邪魔されてできない時は「できたらよいのに」という願望が頭をもたげる。試験勉強の最中など「あれもしたい」「これもしたい」が浮かんで集中できなかった。しかし試験が終わってすぐにそれに飛びついたかというと、そうした記憶もない。退職した人に「本が読めるようになった?」と聞くと、「全然読めない」という返事が返ってきたりする。時間の合間を縫ってやりたいことに精を出すのが、充実した人生を送る秘訣かもしれない。
劣等感の見栄張り系vs.目立ちたくない系サバイバル
ところで、若い頃は誰もが劣等感の塊である。人に馬鹿にされないように見栄を張ることに腐心する。流行ファッションで尖ったり、社会の動きの最先端を担っているつもりになったり、反対に周りの人が近づきにくいカウンターカルチャー(ヤンキー、つっぱり、暴走族など)や、特殊な趣味(オタク)の世界に居場所を求めて存在をアピールする。SNSでひたすら人を上から目線で攻撃する炎上は、日頃認められない自分の存在アピールがあるように思う。
これらの「目立ちたい系の劣等感サバイバル戦略」のもう一方に、自分に自信が持てず、ひたすら「目立ちたくない系の劣等感サバイバル戦略」を追求する人たちもいる。周りに気を遣い、仲間はずれにならないように自分を抑えることに汲々とする。しかし「一寸の虫にも五分の魂」、ひたすら自分を抑えようとすると、押さえられたエネルギーはどこかで爆発の機会を窺う。それが新たな転生の機会になればいいが、事件になることも少なくない。
さて「目立ちたい」系の「見栄張り戦略」、いわゆる「背伸び」路線であるが、うまくいけば見栄張りに伴って中身も蓄積されていく。与えられる役割に応じて人は成長する。
砂上の楼閣耐震工事
私も今まで見栄張りでやりくりして来たとしみじみ思う。人生の終盤を控えても、未だに見栄を気にしている。
他人の眼を気にして築かれる人生は砂上の楼閣であろう。ひとたびに何かに揺さぶられたら基礎から崩れそうである。
勤務の忙しい最中に入院することになってしまった。学者の端くれだが、若い頃から当面の必要範囲で本をつまみ食いしてきた。言ってみれば「本を読んでいる」振りを作ってきた。そこで入院を機会に人生の耐震基礎工事、読書に挑んだ。2年前に肺炎で入院したときは、これまで手に取ることもなかった長編小説に挑戦した。『大地』『ワイルドスワン』『百年の孤独』『カラマーゾフの兄弟』、60歳を過ぎて「食わず嫌い」に気づき、若い頃からの苦手意識が克服されつつある。
今回の入院生活では哲学書に挑戦した。プラトン、カント、ニーチェなど。読んでみて、これまでの自分の考えが揺さぶられる中身に出会えた。もっと早くに読んでいれば、自分はそこからどれだけ成長できただろうと思う。
早咲き目立つが、劣等感にはまってはいけない
劣等感を持つことなく才能を早咲きさせ、さらに高みを目指して進む人は世の中にどれくらいいるのだろう。優等生から落ちこぼれまでが人間ピラミッドを作っているとすると、人と比べて自分に自信を持っていられるのは最上端のほんの一握りの人間である(いない)。最上端以外の99%の人間は、みな自分に劣等感を抱き、見栄張りに腐心し、自分自身の非耐震性に不安を持っている。
生涯にわたる人生の成長において学習は不可欠である。ましてや社会の変化も学問の進展も急速で、過去の延長とは違う未来が登場する。ますます生涯学習が必要なこの時代に、早咲きしなかった才能に劣等感の「だめ烙印」を押し、伸びる芽を枯らしてしまっている人が多い。それは今、学んでいる最中の若い人までも及ぶ。
見栄張りに終わらない自分の進歩を
老若男女、読書、語学、文化、音楽、スポーツ、芸術、「遅咲き」に何を遠慮することがあろう。「早咲きしなければ手遅れ」という根拠のない劣等感の呪縛を断ち切り、見栄張りに終わらない自分の進歩に目を開かせたい。
「遅すぎるスタートはない」「取り返しのつかない失敗はない」
発見ほど楽しいことはない。友よ、発見を語ろう!
(2019/07/26記)宗和太郎
~本学への入学をご検討中の方、保護者の皆様へ~
~本学への入学をご検討中の方、保護者の皆様へ~
宗和 太郎
伝統と実績がある短大
本学は54年前に清武町(現在宮崎市)の誘致を受けて、保育科1学科で誕生した短期大学です。
現在、保育科と現代ビジネス科の2学科、保育科の上に介護福祉士を目指す専攻科を置き、
約500名の学生が宮崎県内全域から通っています。大都市にある何千名もが通う短大から比べると
小さな短大ですが、54年の歴史の中で送り出した卒業生は1万9千名を超え、県内の保育園や
幼稚園をはじめ多くの企業や病院で本学の卒業生が活躍し、その実績が本学への求人につながり、
就職率100%という高い就職率につながっています。
本学が目指すもの
本学が目指すのは、地元宮崎をしっかり支える人物を育てることです。
今、子どもの数が減り、人口が減り、地域を支える人が減りつつあります。
減った少ない人数で地域社会が運営できるためには、一人ひとりが今まで以上の働きをすることが必要です。
そしてその暮らしが魅力に満ち、生きがいにつながらなければなりません。
本学が目指すのは、与えられた仕事をこなすだけでなく、新たな知識を得て新たな技術を使い、
人々と協力しながら世のため人のために働くことに喜びを感じる人物の育成です。
2年間、専攻科を含めても3年間の短い教育年限ですが、
皆さんの持てる力をしっかり伸ばし、人間として成長させます。
皆さんの挑戦を支える短大です
本学の学生は、みな明るくやさしくて素直です。毎朝、明るい元気な声で挨拶が飛び交います。
しかし自分に自信を持てずにいる人が少なくありません。入学時は人前に出るのが苦手だったり、
周りからどう見られているかを気にしすぎて臆病になっている人も多いのです。
本学では教職員、先輩、クラスメイトが皆さんを温かく見守り、皆さんが自分に向き合い、
そして挑戦するのを応援します。その姿がオープンキャンパスでご覧いただけます。
皆さんを成長させます
小さな短大ですが、目指すは日本一の教育力を持つ短大です。
みなさん、ここで自分を羽ばたかせてみませんか。
自分に自信をつけて、地元を支えましょう。県外に出なくても、地元に一流の短大があります。
保護者の皆様へ
本学学生の自宅通学率は85%です。親に無駄な経済的負担をかけずにしっかり教育し、地元の就職へつなぎます。
そして宮崎に誇りを持って支える、充実した人生につなげます。
オープンキャンパスでは保護者向け説明会を開催しますので、どうぞご参加ください。
ご不明な点があれば、いつでも遠慮なくご質問、ご相談ください。
(2019/06/15記)宗和太郎
「これくらい大丈夫」の先にあるもの
「これくらい大丈夫」の先にあるもの
宗和 太郎
地震は前触れもなく突然やって来る。そのときどう動くか。頭の中に「正常化バイアス」が働く。「これくらい大丈夫」という根拠のない判断である。
本当はどうしたらいいか分からないから、大丈夫でいてほしいという気持ちが判断を停止させている。
「これくらい大丈夫」で食べ過ぎる。飲み過ぎる。運動不足。生活習慣病は毎日の判断停止が習慣になっているから、改めにくい。日々、授業外学習することもそうである。
生活習慣を改めていこう。判断停止の習慣が、咄嗟のそのときに動けずし、取り返しのつかないことを招くことがある。
「これくらい大丈夫」と使ってはいけないお金に手を出してしまう。友人に誘われるまま、止めた方がいいことに手を出してしまう。飲み会に誘われる、飲酒もたばこもドラッグもギャンブルも、危険のシグナルが出ているのに、先送りしてしまうことがある。
みんなの後をついていって、津波に逃げ遅れた。約束破りを繰り返し、人から信用されなくなった。甘い言葉に被害にあい、自ら人をだますのも平気になった。自ら勉強する習慣が作れず知恵がなくなった。
人生、楽天的なのがいい。そう思っている人が、判断を先送りして不幸に陥っていないか。人間関係の破綻、犯罪の被害者になる・加害者になる、災害に逃げ遅れる。
気分は楽天的なのがいい。どうにかなる、明日に希望を持とう。しかし根拠のない判断に身を委ねるのは危険である。細心の注意を払って考えよう。
日本は戦争に突入するとき、勝ち目のない無理があることは多くの人が認識していた。しかし、周りの根拠のない気分に押しつぶされしまった。
「正常化バイアス」に身を委ねないためにはどうしたらいいか。大切なのは、小さな失敗に気づき立ち止まって考えてみることである。
頭の中では最悪の事態を想定し、小さな失敗から、最悪の結果にならない教訓を引き出すことである。
このまま行ったら、最悪、何が待っていると思う?
(2019/06/08記)宗和太郎
合格して分かる勉強の仕方 〜覚えようとするな、使え〜
合格して分かる勉強の仕方 〜覚えようとするな、使え〜
宗和 太郎
受験勉強などしなくて済むなら、それに越したことはないと思う人も多いだろう。専攻科では、2年前から介護福祉士の国家試験に向けて勉強をするようになった。
学生の中には勉強の仕方が初めて分かったという感想も多い。今年の合格率は100%である。学生全員が合格できる勉強の仕方を身に付けたのである。
私が勉強のコツにしているのは「覚えようとするな、使え」である。覚えようとすると、どこを覚えればいいか分からないし、どうやったら覚えられるかも分からない。
「使え」とは、言葉や知識の応用場面を考え、言ってみるということである。役立たせ方が分かると、理解につながり記憶につながる。
ただ覚えただけの知識はすぐ忘れるが、使い方が分かった知識は忘れない。
逆に応用場面が考えられない、役立たせ方が考えられない言葉や知識は、自分の理解が足りないか、覚えても仕方がない役立たない知識なのである。
こんな考え方を私はプラグマティズム(道具主義)の哲学から学んだ。
(2019/06/08記)宗和太郎
欲望を消費する度に、幸せは遠のいて行く
欲望を消費する度に、幸せは遠のいて行く
宗和 太郎
■激変してきた人類の歴史
ベストセラーになっているユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史(上・下)』は長編だが、様々なことに目を開かせてくれる書物だった。人類の誕生から現在までを、鳥瞰的に、というよりもっと高いところから一気に俯瞰させてくれる。
人類の歴史は250万年である。
「万年」の単位で見ると、人類はずっと、食物連鎖の頂点に立つどころか、ちっぽけで非力な存在で狩猟採集して暮らしていた。
少し前の7万年前、言語を獲得し共同世界を築くようになった。
そして1万年前、定住して農業をするようになったのが、「万年」の単位で見えてくる昨日までの人類の歴史である。
そして昨日から今日までの間に、500年前の科学革命が起き、産業革命から第4次産業革命までが立て続きに起き今朝を迎えている。1万年単位の変化だったものが、指数関数的に千年単位に変わり、百年単位、そして10年単位で環境が、文化・文明が激変している。
■本能は250万年のまま
人類のDNAの進化は、この激変について行っていない。本能は250万年続いた狩猟採集生活のまま、改訂されていないのだ。だから、人間の自然を教育によって矯正しないと不都合なことが起きる。その大きな課題が欲望の制御である。食べたいものを欲しいだけ食べる。やりたいことをやりたいだけやる。これらは狩猟採集民を250万年つかさどってきた本能DNAなのである。
文化・文明の進歩は、資本主義の時代に入り、人々の欲望に応えるサービスや商品が大量に産み出され、欲望の消費を広告やメディアが誘惑する。ハラリは述べる。「苦痛の軽減や快楽に対する期待があまりに膨らみ、不便さや不快感に対する堪(こら)え性ははなはだ弱まったために、おそらくいつの時代の祖先よりも強い苦痛を感じていると思われる。」
■幸せの考え方
お金は、欲望の消費の手段である。だからお金を沢山持つことが幸せの鍵のように思う人々が多い。しかし欲望を消費する度に失われるのが「堪え性」であり、様々なことに苦痛、すなわち不幸せを感じる心が育っていく。
幸せな人間になるために、現代人が備えなければならないのは「堪え性」である。そのために大切なのは、苦しいことはない方がいいという考え方ではなく、苦しいことがあるのが常態、当たり前という考え方である。人間関係うまくいかないのが当たり前、欲しいものが手に入らないのが当たり前、成長するためには苦しいことがあるのが当たり前なのである。生老病死、苦しいことが当たり前で、幸せばかり求めても得られない。仏教は煩悩を捨てよと教える。 幸せを求めるなら、まず現実に耐える心を育てよう。そうでないと、自分を、子どもを、とんでもなく不幸にしてしまう。
花のいのちはみじかくて 苦しきことのみ多かれど
風も吹くなり 雲も光るなり。(林芙美子)
(2019/03/27記)宗和太郎
目が開かれる喜び
伝えたいことが伝わらない
教師なら、何度も体険することであるが、教えたことが伝わっていない!
「先生言ったでしょ!」と口を荒げたくなるが、 「伝わったことが伝えたこと」なのである。 自分の説明の仕方を反省する。
伝えたいことが全部伝わることはない。7割か、3割か。なぜ伝えたいことが伝わらない?
お互いが我田引水
人の言うことを理解しようとするとき、人は自分の知っている 「~のようなこと」として、自分に引きつけて理解する。そこにズレが生じる。同じように教える方も、自分の知っている世界に基づいて、こう言えば分かるはずと思っている。言うなれば、お互い我田引水なのである。二つの世界のズレがなかなか自覚されない。
対話が開く互いの世界
このズレを埋めるのは対話しかない。相手の理解を正そうとし、その過程で自分の理解も正される。
様々な聞き違い、取り違いがある。一筋縄では行かない。
異なる意見を持つ人との対話は、やっかいでもあるが喜びにもなる。やっかいと思えば人付き合いを避けるしかないが、 自分の世界を広げてくれると思えれば、自分の成長につながる。
発見のある学びは楽しい
最近読んだノア・ハラリ『サピエンス全史』の中で、人類は狩猟採集から農耕生活に移ることで、人類同士の暴力が生まれ、病気や栄蓑不良に苦しむことになってしまった。さらに人類が小麦を栽培するようになり 「小麦が私たちを家畜化した」 という説明に出会った。なるほどと感心させられた。
様々な人の「こう思う」世界に出会い、自分の「こう思う」世界を正していくのは、目が開かれる喜びがある。目が開かれるよう、心を相手に開いていたい。
(2019/03/05記)宗和太郎